西郷隆盛の最後は?最後の場所や最後の言葉を調べてみた!

西郷隆盛は明治維新に活躍した武士・軍人・政治家であり、薩長同盟の成立に成功したり、江戸無血開城の偉業を成し遂げた超有名人物ですね。

学校の歴史の授業では必ず名前が出てきた人物の一人です。

また、大河ドラマ「西郷どん」として、西郷隆盛の生涯を描いたドラマも有名です。

そんな西郷隆盛ですが、最後はどのようにしてこの世を去ったのでしょうか?また、最後の場所や最後の言葉は何だったのでしょうか?

西郷隆盛ファンの方には気になる話題だと思います。

そこで、この記事では西郷隆盛の最後は?というテーマで、死んだ最後の場所や最後の言葉を簡単に紹介していきます。

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西郷隆盛の最後の場所や最後の言葉は?

西郷隆盛は鹿児島県の城山で亡くなったと言われております。ここが最後の場所です。

この場所は「西郷隆盛終焉の地」と呼ばれており、石碑が立っております。

〒892-0854 鹿児島県鹿児島市長田町19−37−2 西郷隆盛終焉の地


西郷隆盛は西南戦争の中で、政府軍から逃げて、最後に立てこもったのが故郷鹿児島の城山でした。しかし、政府軍の攻撃が激しくなり、いよいよ死を覚悟した時に、最後の言葉を言います。それが、

「晋どん、もうここいらでよか・・・・」

「晋どん」とは一緒に逃げていた「別府晋介」のことです。

別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせー」と叫び、西郷の首を斬り落としました。

これが西郷隆盛49歳の最後となります。


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西郷隆盛の最後?西南戦争の一部始終を簡単解説!

さて、西郷隆盛の最後の場所や言葉を紹介しましたが、もう少し詳しく知りたい方の為に、西郷隆盛の最後の原因となった西南戦争の一部始終を簡単に解説したいと思います。

私学校設立

西郷隆盛は政治家として活躍していましたが、1873年に政府に辞表を提出して、故郷の鹿児島に帰ります。この辞表は大きな反響を呼び、西郷の後を追って、政府をやめる者が続出しました(これが後にいう旧薩摩藩士族となります)。

鹿児島に帰った後は政治に一切関わらず、農耕に励み、狩猟を行うなど、平穏に暮らしておりました。

その後、西郷隆盛は「私学校」を設立します。この「私学校」は鹿児島に帰郷した若者たちの受け皿としての教育機関でした。

西南戦争勃発

1876年になると、全国各地で不平士族の反乱が頻繁に起こるようになっていました。

九州地区でも多くの反乱が起こっていましたが、西郷は特に動きません。

しかし、政府側にとっては、明治維新最大の戦力であった旧薩摩藩士族の動きは気になるものだったので、「私学校」の動きを監視する為に、警察を送り込むのでした。

政府側としては、旧薩摩藩士族に戦力を与えたくないので、鹿児島にあった火薬・武器庫を大阪に移動させようとした為、私学校の生徒の一部が、政府の汚いやり方に対して激高し、政府側の火薬・武器庫を襲ってしまいます。

これが火種となり、鹿児島県内の火薬・武器庫が次々と襲われ、大暴動となります。

そのころ、西郷隆盛は大隅半島で悠々と狩猟をしていて、その暴動に気付いておりませんでした。その後、暴動の一報を受けた時に、西郷は一言、

「しまった! なんちゅうこっを……」

と言ったそうです。しかし既に後の祭りです。既に手の施しようのない状態となっており、西郷と私学校の幹部たちは、政府と戦うことを決意し、旧薩摩藩士族を引き連れて、東京へ進撃を開始しました。

これがいわゆる西南戦争と言われています。

西郷城山に散る

各地で争いを繰り広げる中で、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に対し、薩摩軍は追い詰められていきます。

九州を転々としながら、戦うも最終的には鹿児島県城山で最後の決戦を行う事になります。

そして、迎えた運命の1877年9月24日。

政府軍は西郷が立てこもっている城山に向けて集中砲火を浴びせます。

西郷と薩軍兵士たちは、潔く前に出て死のうと決意し、城山を下山し始めます。その途中で西郷は一発の銃弾に打たれ、その場で膝を落としてしまいます。一緒に居た別府に、

「晋どん、もうここいらでよか・・・・」

と言います。

別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせー」と叫び、西郷の首を斬り落とします。

これが西郷隆盛の最後となります。


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まとめ

西郷隆盛の最後ということで、最後の場所や最後の言葉を紹介してきました。

西郷という人物は、常に人々の期待や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる立役者の一人となりました。

しかしながら、西郷自身はその功績に決して驕ることなく、常に自らを厳しく律し、無欲でいることを心がけました。
また、「敬天愛人」という言葉が象徴しているように、その性格は愛情深く、常に民衆の側からの政治を目指すことを理想としました。

日本の歴史上、このような人物は、西郷ただ一人しか存在していないと言っても過言ではありません。西郷は清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えます。

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